昨年10月、栃木に住む義母がこの世を去った。享年76歳だった。平均寿命から考えると、少し早すぎた。
同年、5月頃、「だるいし、食欲もない、近くの病院で血液検査をしたら、白血球が3万を超えている。大学病院の血液内科の紹介状をもらった」と元気がない。白血病?一瞬頭をよぎったが、一見気が強そうに見える母だが、実は小心者だとわかっていたので、差し障りのない事を話し励ました。通院で検査しているうちに、症状が悪化し6月下旬には、大学病院へ緊急入院した。医師から告げられた病名は、腹膜がん、腹膜播種、肝臓転移、進行の早い病気で、余命6ヶ月。ある程度覚悟はしていたが、息子3人、嫁3人でしばし呆然としてしまった。母には、肝臓転移と余命は伏せて、長男が話した。母は、「覚悟していたから」とは言っていたが、2,3日元気がなかったようだ。それからは、今までの親不孝をわびつつ、出来る限り、主人と病院へ足を運んだ。「おなかが張る」「食欲がない」と訴えるが、美食家の母から「何を食べてもまずい」という言葉を聞くのが一番つらかった。しかし、いつも私たちを歓迎してくれ、多弁で話が尽きなかったことが救いだった。
10月に入ると、さらに病状は悪化し、「兄弟仲良くすること」「孫たちには・・・」と遺言めいたこと言い出した。16日、意識もうろうとする母を息子3人が囲み、黙ってしばらく眺めていたよ、いい光景だったよ、と娘から聞き、胸が熱くなるとともに嫌な予感がした。翌日、長男より亡くなった、と連絡が来た。母の顔はとても安らかだった。「お疲れさま、何もしてあげられずにごめんなさい」と、わびながら涙がしばらく止まらなかった。
通夜、告別式では、斎場一杯の弔問客が、母の死を惜しんでくれた。あたりまえだが、そこに母は居ない。旅館の一人娘に生まれ、商売の事、渡辺家の行事一切を仕切っていた母が居ない。意識したことがなかったが、改めて母の存在の大きさを知り寂しくて仕方なかった。食べ物を送ると、はっきり「いまいちだった」という母、初めの頃はカチンときたが、その代わり、美味しい時は、「美味しかったよ、ありがとう」と、とっても喜んでくれた。そんなはっきりした性格の母に徐々に慣れ、気が合ったし、可愛がってもらった。
主人と出会い25年、母には、あらゆる面で助けてもらった。今、私達家族が平穏に生活できるのは、母のお陰といっても、決して過言ではない。感謝の気持ちでいっぱいだ。
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