2006.2.27

私の目標
病棟看護師  小野絢子

 「人にお世話される事はあっても、自分が人のお世話なんて無理だよー。」そう思っていた17歳の頃。今の私は、この職業に「向いているかどうかは分からないけれど、できる限り、続けて行きたい。」と思っています。あの頃は、本当に人のために何かをしたいなんて思った事もなかった。そんな私がこの職業に就いたのは…。他でもなく、母親の影響です。

 生まれた時から家には看護婦さんがいて、軽い怪我や病気なら母が看てくれていたので、病院へはほとんど行った事がなかった私。いつも疲れて帰って来る母が、普段どんな仕事をしているのかなんて全然知りませんでした。専業主婦に比べて、あまり家にいられなかった母を見て、子供の頃から「絶対看護婦さんにはならない。」と決めていた私は、ある事をきっかけに、その考えが逆転させられました。
 それは、母方の祖父が亡くなった時。看護師である母は、自分の勤めている病院で自分の父を看取ることにしました。祖父が亡くなった時も、母は看護衣を着て祖父のケアをしていました。普段涙もろく、私の幼稚園の卒園式でさえ泣いていた母が毅然と涙ひとつ流さず、祖父を看取ったのです。その後、看護衣を脱いだ母が号泣していたのは言うまでもありません。その姿を見た私は、看護師という職業が、その意識が、ここまで人を強くするものなんだ!と感銘を受けました。普段、家でケラケラと笑っている母と、看護師の母、その2つを使い分けていることに、驚きと尊敬を覚えました。「私もそんな人になりたい!」初めてそう思いました。
 看護師になって5年目となった今、「精神的にも体力的にもこんなにキツイ仕事をしながら、結婚して子供を育てるなんて、私にできるのかなぁ。」と思いつつも、「こんなに人の近くにいられて、やりがいのある仕事は他にはないんじゃないかなぁ。」とも思っています。
 昨年末、母が脳血管の手術を受けました。そのときの私は、手術後の母の姿を見て涙が止まりませんでした。「お母さん」と声をかけることで精一杯でした。自分自身、入院をした事もなく、家族が大きな病気をした事がなかった私は、患者さまの、ご家族の不安感を初めて知り、これからはもっと、患者さまはもちろん、家族の方々への精神的配慮も忘れずに仕事をしようと思いました。 その時、仙台から東京に戻る私に対して母が…「気をつけて帰るんだよ。」と一言。全身麻酔でもうろうとしている中、自分の事より私の事。私は、自分自身まだまだちっぽけで、母の足元にも及ばないなぁ…、と身に染みながら東京へ戻りました。

 母は今も看護師として働いています。まだまだ未熟者の私ですが、そんな母を目標に、これからも一歩一歩、看護師として、人として、成長していきたいです。
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